
前からちょっと気になっていたことがあるので、今月はそれについて語らせていただく。私はロシア・NIS諸国(以下便宜的に「ロシア圏」と呼ぶ)に仕事で出張に行くと、なるべく現地で民族音楽の収録されたCDを買って帰ってくるようにしている。ロシア圏では、出張の楽しみがそれほど多くないので(グルメが期待できないことは前々回のエッセイで述べた)、音楽好きの私としては、せめて民謡の入ったCDでも買って、帰国後に楽しんでみようと、そういったところである。ちなみに、ロシア圏では、真正のCDだけでなく、MP3形式で1枚に100曲くらいを詰め込んだディスクがキオスクや市場などで安価に売られているケースもあり、そうしたものを買い求めることもある。
ところが、そうしたCDやMP3ディスクを買って聴いてみると、妙に現代的な演奏でガッカリすることが多い。楽曲自体は伝統的なもののはずで、歌い方はれっきとした民謡風なのに、バックの演奏に電気楽器が多用されており、往々にして打ち込みのドラムだったりするのである。民族音楽としての情緒も、生楽器が醸す味わいも何もなく、落胆させられる。これが日本であれば、たとえば青森民謡のCDを買って、リズムボックスのドラムなんかが入っていたら、買った人は怒るだろう。なぜか、ロシア圏ではそれがむしろ標準なのである。
いくつか、そうした「モダン民謡」の実例を紹介してみよう。まず、ベラルーシのこの『Folk-Modern』というアルバムから、「私はどのようにして新しい厩に行くか」という曲を聴いてみる。お聴きのとおり、冒頭はアカペラでこれぞ民謡という感じで始まるものの、本編に突入すると電子楽器が乱入してきて、すべてがぶち壊しというパターンだ。まあ、この作品の場合には、アルバムのタイトルに「モダン」と入っているので、斬新なアレンジの試みとして意図的にやっているのかもしれないが。

もっとあからさまに残念感が漂っているのが、モルドバで買ってきたこの『Muzica de Petrecere(パーティ音楽)』と題するMP3ディスクである。試しに、「Bou La Bou Rage(怒りの牛といった意味?)」という曲をアップしておくが、このようなチープなサウンドが延々と100曲も続き、とても聴くに堪えない。

昨年12月に西ウクライナに調査に出向いた際には、カルパチア地方の民謡の入ったMP3ディスクを買ってきたが、これもモルドバのそれと同じノリだった。サンプルとして、「クルチェナ(ねじれた)」という一曲をどうぞ。

さて、実は今回このエッセイを書くことを思い立ったのは、やはり昨年のウクライナ出張の際に、キエフのマルチメディア店で、『Ukrainian Dancing Melodies』『Ukrainian Romantic Songs』という2枚のCDを買ったことがきっかけだった。帰国後にまずアップテンポの曲をまとめた前者『Ukrainian Dancing Melodies』の方を聴いてみたところ、聴こえてきたのは、電気・電子楽器ではなく、安心して聴ける伝統的な雰囲気の演奏だった。「なんだ、こういうオーソドックスな演奏のCDも一応あるのか。良いものを見付けたな」と、思わず安堵した。一例として、こちらの「Sell Me Your Gray Oxen(牛を売ってくれ)」なんて曲はどうでしょうか。

こころが、このCDを聴き進んでいくと、異変が。せっかくウクライナ民謡の情緒に酔っていたのに、突然無粋な現代風の曲が始まったのである。この「チチェリ(みぞれ交じりの寒い天気のこと?)」という曲をお聴きいただきたい。70年代のフュージョンか、はたまたニューソウルかというサウンドであり、まったくの興醒めだ。あと何曲か、こういう残念な作風の曲が入っていた。バラードを集めた『Ukrainian Romantic Songs』の方でも、この「Moonlit is the Night(夜は月に照らされている)」なんて曲は完全なボサノバであり、勘弁してほしい。
この『Ukrainian Dancing Melodies』と『Ukrainian Romantic Songs』という2枚のCDは、ウクライナ国営ラジオ局が過去の名作を選りすぐって編纂した作品集なのである。そこに、あえてモダン演奏の作品が収録されているのだから、ロシア圏の人々にとってこれは不自然ではないということなのだろう。これはちょっと考察してみる必要があるかもしれないということで、本エッセイをしたためている次第である。
さて、試聴はまだまだ続く。今度はロシア・タタルスタン共和国で買ってきたCD。ちょうど1年前のこのコーナーでタタルスタンのCDをいくつか紹介したが、その続きをやりたい。今回はこの『Sinder, tatar keshese...』という作品に耳を傾けてみよう。残念ながらタタール語のタイトルの意味が分からないが、タタール人のルーツとしてのブルガール人の伝統に回帰するというような、民族色・イスラム色の濃い内容のようである。ところが、「聖なるラマダン」、「ブルガールスタン」といった曲の演奏が現代風で軽薄すぎ、どうにも違和感を感じる。

その点、同じタタルスタンのブルガール回帰ものでも、昨年のエッセイで紹介したランディシ・スプハンクロヴァの作品は、とても良い。電子音などを使っていても、手抜きとか自己目的とかではなく、ちゃんとそれを消化した上で音楽的な表現手段として用い、それによって民族性を表現し切っているところが素晴らしい。前回は「私の心は燃えている」という曲を紹介したが、今回はオマケで「白いカルファク」という曲をお聴かせしよう(カルファクというのはタタール人女性の被る民族的な帽子)。

このように、ロシア・NIS諸国の民族音楽CDで、電気・電子楽器や打ち込みを多用した演奏が目立つ現象に関し、私自身はこれをどう解釈しているか? 上で見たモルドバやカルパチア地方のMP3ディスクは、安物のBGM用の商品だろうから、制作予算を抑制するために打ち込みのリズムを多用しているという可能性はありそうだ。若いミュージシャンなどは、入手や習得が難しい民族楽器よりも、手軽な電気楽器やコンピュータを多用しがちということも考えられる。漠然と、電気・電子楽器やコンピュータミュージックの方が進歩的と信じられているのかもしれない。
もしかしたら、我々と比べて、ロシア圏の人々は自分たちの民族的な音楽がとても好きで、身近に感じているのかもしれない。日本人が民謡というものを特別視して、つい身構えてしまうのに対し、ロシア圏の人々はよりカジュアルに接しており、だからこそ「民族音楽は生楽器でなければ」といった縛りから自由なのではないか。推測の域を出ないが、私は今のところこんな具合に理解している。
(2012年5月19日)
3月18~20日に中国の北京に調査出張で出かけてきた。今月のエッセイでは、だいぶ雑駁な内容になるが、中国出張の雑感を書き記しておきたい。すでにブログで断片的に書いたことと重複する部分が多いが、ご容赦を。
私の場合には、事業対象国であるロシア・NIS諸国以外の外国に仕事で行く機会はまずなく、プライベートでも滅多に外国旅行には行かない。中国には、15年前に上海に一度行ったきりだった(あと台湾もあるけど)。今回は、15年振りの中国であり、なおかつ初の首都・北京訪問だったわけである。これだけの重要国が日本のすぐ隣にありながら、ようやく2度目というのは、我ながら恥ずかしい。
素朴な感想として、北京は意外と遠かった。東京からの飛行機だと、往路は4時間10分、復路は偏西風の影響で多少速くなって3時間20分である。初めての土地を訪問する際には、なるべく飛行機に乗っている時点から、窓からの眺望を楽しみたいという気持ちがあり、今回も窓際の席をとったのだが、それが正解だった。大陸に近付いてからの眺め、遼東半島の先端部(写真)や、天津付近の港湾施設の様子、北京郊外の風景などは、とても印象的だった。

当然のことではあるが、北京はやはり大帝国の大首都であるということを実感した。今回私が北京で泊まったホテルは、市のど真ん中で、天安門広場のすぐ隣という感じのところだったのだけれど、とにかく中国国内の地方から来たと思われる団体観光客が多い。日本人を含め、外国人も多いはずなのだけど、中国人ツアー客の圧倒的な数の前に、多勢に無勢といった感じ。2年前に韓国のソウルに行った時には、日本人だらけという感じがしたけど、それとはまったく様相が違っていた。

こうした帝都に身を置き、文明の中心であるということを自負している人々は、あまり外国語を学んだりしないのではないか。今回私は、慌ただしい出張だったということもあって、片言の中国語を覚えたりもせずに、まっさらの状態で北京に入った。2年前のソウルでは、英語はもちろん、観光客が行くような場所では日本語も通じたりするので、北京でもある程度何とかなるのではないかというイメージを抱いていたのだが、実際にはソウルとは大違いだった。さすがにホテルは英語が通じたが、それ以外のレストランとかお店とかでは、ほぼ絶望的。ガイドブックに載っているような有名なレストランでも、従業員のうち片言の英語ができるのが1人いるかいないかといった感じで。日本人であれば、英語が苦手な人でもワン・ツー・スリーくらいは誰でも言えるはずだけど、中国人の多くはそういう断片的な単語すらも知らない様子。正直、よくこれでオリンピックを乗り切ったなと思ってしまった。
もちろん、意外に進んでるなという部分もあって、地下鉄などはその最たるものであり、このあたりはオリンピックに向け整備が進んだのかもしれない。地下鉄駅には必ず転落防止のホームドアが設置されており、遺憾ながらこの面では我が国は先を越されている。びっくりしたのは、地下鉄の走行中に、窓の外に広告が映写されていたこと(写真参照)。どういうテクノロジーになっているのかは、ちょっと良く分からなかったが、面白いことをするものである。あと、地下鉄車内や、ホームドアに設置されたモニターで、スポーツ中継なんかを流していた。北京の地下鉄の料金は、乗る距離にかかわらず、また乗り換えをしても、一律2元。ロシア圏なんかと同じで、利用者にとってはシンプルでありがたい。ただ、北京の地下鉄の自動券売機は、一律同一料金にもかかわらず、なぜかいちいち路線名や降車駅などを示して切符を購入しなければならず、それが煩わしかった。

旅行の最大の楽しみは、何と言っても食べ物だろう。しかも、15年前に1度だけ上海に行った時には、食べたものすべてが例外なく美味かったので(レストランだけでなく、衛生の心配をしたくなるような汚い屋台でも)、今回の北京でもきっと美味しいものに出会えるに違いないと思って楽しみにしていた。ところが、結果は完全に期待外れ。上海とは逆で、何を食べても、???という感じだった。旅行ガイドに出ているようなちゃんとしたレストランでも、大して美味いとは思わなかったし。これだったら、東京の商店街とかにある普通のラーメン屋で食べる中華の方がイケるんじゃないかと思うくらい。まあ、北京にだって美味しいところは当然あるはずで、今回たまたま巡り会わなかっただけだとは思うが、いずれにしてもガックリ来た。

あと、個人的な関心の領域で言うと、中国で予想外だったのは、WiFiがあまり普及してないような感じがしたこと。ロシアなんかだと、空港、ホテル、飲食店など至るところで無料のWiFiが利用できるので、そういう感覚でいたのだが、北京ではWiFiの文字自体をほとんど見ない。今回の北京出張は3日間という短いものだったので、iPod Touchでネットやメールができるからそれで事足りるだろうと判断し、パソコンを持って行かなかったのだが、計算違いだった。ようやくWiFiに繋がっても、フェイスブックとツイッターには接続できず、なるほどここは完全に自由な国ではなかったのだなと、認識を新たにさせられた。
中国のテレビ放送にも驚いた。中国中央電視台のチャンネルが、10以上あるんだなあ。ザッピングしても、「CCTV」のロゴのチャンネルが延々と続くものだから、「何だこりゃ?」と思った。まあ、最近では地方放送局も台頭しているようだけど、たとえば「北京電視台」というローカル局にもまた多数のチャンネルがあって、それにもビックリ。

私としては、中国国民の、ロシア・NIS諸国への関心のほどが気になるところだが、北京の大型書店を覗いてみたところ、ロシア関連書籍はそれなりにあるなという印象だった。とくに、3月の北京訪問時には、ロシア大統領選が終わった直後だったので、プーチンの評伝が平積みされて売られている様子もあった(写真)。また、現地の時事雑誌でロシア大統領選およびプーチンの特集が組まれている号が目に留まったので、買ってみた。その号の概要は、こちらのサイトで読むことができる。個人的に中国語が理解できないのがもどかしいが、特集のタイトルは「ロシア大統領選現場視察:スーパー大統領誕生記」ということのようだ。中身を見ると、一応は反政府デモなどにも触れているようであり、このあたりの中国当局の情報管理のニュアンスというのはとても興味がある。

書店と言えば、自分へのお土産として、中国語の世界地図帳と中国地図帳を買い求めた。私は子供の頃から外国語と社会科が好きで、その帰結として今の仕事に就いたのだけれど、だからたとえ読めなくても、異国の言葉で書かれた地図帳を眺めているだけで、とても楽しい。ちなみに、書店では商品を折詰弁当のように紐で縛って渡された(写真)。なかなか独特だ。

さて、今回の北京出張で本題以外で一番勉強になったのは、知り合いの先生に「胡同」と呼ばれる北京の旧市街のようなところを案内してもらったこと。胡同は北京の原風景とも言うべき古い街並みであり、近年ではそれが取り壊されて跡地にビルが建てられたりすることが多く、市内に点在するような形で部分的に残っているらしい。消えゆく哀愁の下町といったところだが、最近では北京の伝統的な景観として見直され、保護されている地区もあるようだ。それで、胡同に多く見られる「四合院」という伝統的な家屋も見学させていただいた。四合院にはかつては1つの大家族が暮らしていたが、私的財産を否定する毛沢東の文革時代に国によって没収されてしまった。元所有者が引き続き同じ四合院に住むことは許されたものの、1つの四合院を他の家族と共有することを余儀なくされ、中庭を挟んで別々の家族が同居し合うことになったという。しかし、鄧小平の改革開放の時代になると、四合院も元の所有者に返還され、今では再び1つの大家族が四合院全体を占有するようにもなっているようだ(私の見学したところはそうだった)。こういう話を聞くにつけ、中国という国も本当に波乱万丈の歴史を辿ってきたのだなあという思いを、今さらながらに強くする。

余談ながら、私が案内された家のお爺さんは、中国では盛んな切り絵の職人ということだった。で、四合院見学の最後に切り絵の売店に案内されて、正直あまり欲しいとも思わなかったが(笑)、何も買わないというわけにはいかない雰囲気だったので、自分の研究分野に近いということで、マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東の揃い踏みの切り絵を買うことにした。まあ、この見返りを求めて、家を見せてくれているのだろうから。

あとは、北京市内のエリア探訪のお話。まず、有名なところで、「国貿」というエリアに行ってみた。北京を代表するオフィス街で、高層ビルが立ち並ぶ地区である。で、ここに北京で最も高いビル「国貿三期」があるので、その最上階近くまで登ってみることに。爆発的な成長を遂げる北京の姿を、この目に焼き付けようと思ったのだが…。快晴にもかかわらず、視界が悪くて、全然遠くを見渡せない。まあ、北京の大気汚染は有名で、それに季節柄黄砂の影響も出始めた時期だったのかもしれないな。

それから、北京市内に「牛街」というイスラム街があるということで、旧ソ連のイスラム圏との比較とか関係性といった観点から興味が沸いたので、昼食がてらその界隈に行ってみた。ただ、モスクや新疆料理店は確かにあったけど、それ以外はわりと普通の街並みで、あまりエキゾチックな感じがしなかった。カザフ人コミュニティとか見学できたら良かったんだけど、事前にリサーチしている余裕がなかったので、ちょっと界隈を散策しただけで帰ってきた。

そして、北京に来たらぜひ寄ってみたかったのが、中国のシリコンバレーと呼ばれる中関村。実は今年度私はロシアのイノベーション政策に関する調査事業をやることになっているので、北京のハイテク・クラスターの成功例と言われる中関村の雰囲気だけでも見ておきたいと思ったのだ。ただ、実際に中関村に行ってみると、ちょっとシリコンバレー的な雰囲気とは違う。むしろ、中国の秋葉原と言った方がしっくり来る感じで、駅前は家電量販店が軒を連ね、あとは高層ビルが立ち並んでいるような感じのエリアだった。まあ、その高層ビル群に多くのIT企業が入居しているのかもしれないが、予想したようなベンチャー的な雰囲気とはだいぶ違っていた。

そんなこんなで、まったくとりとめのない文章でした。今回は調査出張だったので、万里の長城とか、頤和園とか、そういう定番の観光コースには行けなかった。それでも、滅多に行かない中国に行ったものだから、見るもの聞くもの、すべて珍しくて、素人丸出しのコメントばかりで、お恥ずかしい限りだ。とにかく、ロシアとの比較という意味でも、ロシアとの関係という意味でも、中国のことを最低限頭に入れておかなければ、駄目だろう。今後、訪中の機会がどれだけあるかは分からないが、なるべく中国のことも知るように努めていきたいと思う。
(2012年4月22日)
初めにお知らですが、私はこれまで旧ソ連の中のヨーロッパ寄りの国を主たる研究対象とし、中央アジアは専門外であるという立場を基本的にとってきましたが、思うところあり、とりあえずカザフスタンくらいは守備範囲に加えてみようかなという気になりました。そこで、本HPの「研究ノート」のシリーズに、カザフも追加することにしました。
まあ、もともとカザフはかなり興味のある国だったんだけど、今回カザフもかじってみようかという気になった直接のきっかけは、ロシア・ベラルーシ・カザフ3国による関税同盟/共通経済空間が発足し、その関係でカザフの情報も取り扱うケースが出てきたから。それに、モルドバみたいな貧乏な小国を研究するよりも、ゼニの匂いのするカザフの方が後々つぶしが利きそうだし。さらに言えば、ウクライナなんかは、あと10年くらいしたら、嘘から出た真で、EUに入ってしまうなんて可能性もなきにしもあらずで、そうなると我々のような特殊市場の専門家の出番はなくなってしまい、逃げ道を作っておくためにも東の方に足場を築いてみようかなという、まあそんなところでしょうかね。
マンスリーエッセイは、それとは何の関係もない話。私は職業柄、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ(以下、便宜的に「ロシア圏」と呼ばせてもらう)の地方都市を訪問する機会が多い。しかし、ロシア圏の地方巡りは、そんなに楽しいものじゃない。その主原因は、ご当地グルメというものが存在しないことではないかと思っている。
むろん、ロシア圏の国々にも良いレストランはあるし、たとえば「ここのボルシチは美味い!」と舌鼓を打ったりすることはある。しかし、ロシア圏どこのレストランに行ってもだいたい同じようなメニューになっており、地方ごとの特色とか名物というものが乏しいのだ。「キエフ風カツレツ」とか「モスクワ風サラダ」とか「シベリア風ペリメニ」とか、地名が付いている料理はあるものの、それらはロシア圏全域で定番化してしまっている。
日本では、だいたいどこの地方に行っても、郷土料理というものがあるものだろう。昨今のB級グルメ・ブームのように、新しい名物を作って街興しにつなげようという涙ぐましい努力も見られる。1軒の店や1人の料理人のレベルですら、どうにかして新しい名物を作れないかと切磋策増したりするのが、日本国民というものだろう。旅行者にとってみれば、別にそれが「創られた伝統」であろう一向に構わず、とにかく、せっかくどこかに出かけた以上は、その場所ならではのものを食べてみたいというのが人情だと思うのだ。その点、地理的にはやたら広大なのに、西のカリーニングラードから東のウラジオストクまで食文化がだいたい似たり寄ったりで、地方ごとの個性が乏しいロシア圏は、どうにもつまらない。
ただ、そんな私が忘れられないベラルーシの郷土料理が、一つだけある。「ポレシエ風カツレツ」という料理である。今回はそれについて語らせていただく。
私は1998年4月から2001年3月までベラルーシのミンスクに駐在したわけだが、当時のベラルーシはまだまだレストランなどは少なかったので、そもそもそんなに美味いものに出会う機会がなかった。ベラルーシに3年間住んで、「これは美味い!」と感動を覚えたのは、ただの2回だけである。
まず、西部の街ブレストを訪問した時、サンタ・インペクス社のA.モシェンスキー氏がベロヴェージ原生林に連れて行ってくれ、そこでやったバーベキューがめちゃめちゃ美味かった。ユネスコの世界自然遺産の中でバーベキューをやっていいのだろうかという疑問はあったが(笑)、さすがベラルーシで最も成功している食品会社の社長が選んだ食材だけあって、ソーセージや魚など、すべてが本当に美味かった。ただ、これは素晴らしい環境の中で、新鮮で優れた素材を食べたから美味しかったということであり、ご当地グルメというのとは違うだろう。
そして、もう一つ、私がベラルーシで出会った食べ物で忘れられないのが、ポレシエ風カツレツという料理なのである。2000年11月、同国南東部のゴメリ市を訪問した際に、現地のNGO活動家カシヤネンコ氏がレストランに連れて行ってくれたのだが、その時にこれを食した。「ポレシエ」というのはベラルーシ南部からウクライナ北部にかけて広がる領域を指す地名なのだが、ゴメリはその中でも東ポレシエというサブリージョンに属している。レストランで、そのポレシエの名を冠した料理を注文したところ、これがすこぶる美味だったものだから、強い印象に残ったというわけだ。ロシア圏の地方に旅行して、そのご当地の料理を食し、美味くて感動したというのは、後にも先にもこの時だけだった気がする。
で、ポレシエ風カツレツがどんな食べ物かというと、見た目は丸いメンチカツのような感じである。たぶん中身は鶏肉で、それにキノコなどをまぜてミンチ状にし、油で揚げてある。和食の鍋で出てくる鶏のつみれを揚げたような感じといったらいいかな。俗にいう「外はカリっと、中はフワフワ」というやつで、味がくどくないので、3つくらいペロリと食べられた。
ポレシエ風カツレツは、ゴメリのレストラン独自の創作料理とかではなく、一応は料理として確立されたものだと思う。というのも、ミンスクのスーパーマーケットの総菜売り場で、同じ名前で売っているのを見たことがあるからだ。ただ、買って食べてみたが、作り置きのなので、ゴメリで食べたそれの足元にも及ばなかった。
その後、自分の食べたあの料理はどんなものだったのだろうと、ネットで調べてみたりもしたのだけれど、ロシア語で「котлеты по-полесски」で入れてみても、ベラルーシ語で(やや自信がないが)「катлеты па-палеску」で入れてみても、まったくヒットしない。「ポレシエ風シュニッツェル(Шницель по-полесски)」なんていうのは見付かったけど、これは明らかに別物。
それで、昨年11月、11年振りにゴメリを訪問する機会があった。かくなる上は、かつて自分がポレシエ風カツレツを食した店を、もう一度訪ねてみるしかあるまい。そう考え、私はあやふやな記憶をたどって、11年前のレストランを探してみた。確かそこは、大通りに面した「ツーリスト」とかいう大型ホテル付属のレストランだったはずである。そして、地図を頼りに、ようやくそれらしきホテルを見付け、はやる気持ちを抑えながら、お目当てのレストランに向かって歩いて行ったところ…。
ショック! モップで床掃除をしていたおばちゃんに、「あなた、どこ行くの? レストランなら、閉鎖されましたよ」と言われた。え? そんな殺生な。まあ、店舗自体はそこにあり、最近まで営業していたような雰囲気で、一時的な改装工事とかなのかもしれないけど、とにかく「あのポレシエ風カツレツをもう一度食べられるかも」と楽しみにしていたので、ガックリ来た。
うーむ。こうなったら、「ミンスクの台所」とコラボして、復元を試みるか。
2012年2月16日
下記の2月のエッセイに書いたように、このホームページのモバイル版を立ち上げたつもりだったものの、いきなり軌道修正することになりました。手作りのモバイル版はやめにして、その代り、ホームページのブログ版を立ち上げ、そのブログ版はモバイル端末での表示に対応しているので、同ブログ版をもってモバイルサイトとさせていただくことにしました。
で、新しいブログ版のアドレスは、以下のとおりです。
http://blog.livedoor.jp/httrmchtk/
それから、過去2年ほど、Yahoo系のブログサービス「ジオログ」で、「こっそりブログ」をお届けしてまいりましたが、新ブログ立ち上げに伴い、こちらは停止することにしました。今まで「こっそりブログ」の方に書くことの多かったカジュアルな話題も、こらかれは新ブログの方に書こうと思います。というか、この2年間、1日1回は必ず「こっそりブログ」を更新するというノルマを自らに課してきたので、苦し紛れに下らないネタを書いてしまうことも多かったものの、もうそんな必要はないかもしれません。新ブログではロシア・ウクライナ・ベラルーシの最新ニュースが中心になり、そういう記事が自ずと1日1本くらいは出ると思うので、無理におバカな話題で記事稼ぎをする必要もないかと。まあ、かといってお堅い話題ばかりでもなんですので、ユルい話も時折は織り交ぜていきたいと思いますが。
で、ここからは愚痴話ですが。そもそも私だって、出来合いの良い雛形があれば、自分のホームページを一から手作りするような面倒なことはしたくないのです。で、私の利用しているホームページ・サービス「ジオシティーズ」も、いくつかウェブサイトのテンプレートを提供しているので、何年か前にそうしたものの利用も検討してみたものの、どれも窮屈な枠組みばかりで、自分のように図版を多用したり長文を載せたりするのには向かないなということで、デザイン性は劣るけれど自由度の高い自分流のやり方でホームページを続けてきたわけです。
ここ2年ほどは、研究対象各国ごとの「研究ノート」のシリーズというのを始め、またサッカーのコーナーなんてのもあり、さすがにそういう更新頻度の高いコーナーについては、出来合いのブログ・サービスを利用した方がいいかなということも、一応は考えました。しかし、私の場合、たとえば、2011年のウクライナの動きが1つのページの中にずらりと並んでいて、それを全体として眺めてウクライナ情勢の流れを掴むとか、そのページ内で「アフメトフ」という名前を検索して調べものをするとか、そんな形で自分自身がメモ帳として利用することを想定しているので、記事本文そのものがずらっと並んでいる方がいいんですよね。ブログだと、1本1本の記事をいちいち呼び出さなければならず、一覧性が損なわれてしまうので。それに、私の偏見でしょうが、オーソドックスなホームページに比べて、「ブログ」というものは、やはり落書き的なイメージがあり、情報の価値として一段落ちるような感覚が否めませんでした。
ただ、私自身、スマホ(厳密にはiPod Touch)やらフェイスブックやらに親しむようになり、多少価値観が変わってきたところがあって。そうしたなかで、いったんは自分のHPのモバイル版を手作り・自己流で立ち上げてはみたものの、もうちょっと良い方法はないかと、引き続き方策を探ってみたわけです。
それで気が付いたのは、世のブログ・サービスは昨今、ほとんどの場合、スマホ向けに最適化されているということ。たとえば、今回私が選んだライブドアのブログにしても、ユーザーが特別な設定とかをしなくても、PCはPC、スマホはスマホ、携帯は携帯で、それぞれ最適な画面で表示されるわけです。当たり前だけど、プロが作ったインターフェイスの、何と洗練されていることか。いやあ、迂闊だったなあ、世の中こんなことになっているとは。今から思えば、自己流でモバイルサイトを構築しようとしたことなどバカみたいだけど、まあ早目に誤りに気付いてよかった。
だいたい、私がこれまで利用していたYahooのブログ・サービス「ジオログ」が悪いんですよ。ジオログで作成したブログをスマホの画面で見ると、単にPCと同じ画面がミニ表示されるだけで、ページを読むためには、わざわざ自分でページを拡大したりしなければならない。自分の利用しているサービスがこうだから、他のブログもこんなもんだと思い込んでいたけど、認識不足も甚だしかった。今回、ライブドアのブログを試してみたら、表示の最適化だけでなく、編集の自由度なんかも比べ物にならないくらいに高い。あ~、ジオログなんて変なサービスを選んでいたせいで、時代に取り残されちゃったなあ。
で、ここまでライブドアのブログの使い勝手が良いと、逆にHPの「研究ノート」シリーズは廃止して、ブログの方に一本化してしまおうかという誘惑にも駆られる。ライブドアのブログでは記事のカテゴリーを設定できるので(それが普通のはずだが、ジオログはそれさえもできなかった)、HPの「ベラルーシ研究ノート」の代わりに、ブログの「ベラルーシ」のカテゴリーを利用すればいいのではないかという…。しかも、カテゴリーは各記事につき2つまで設定できるから、ロシア・ウクライナ二国間関係の記事をどちらのコーナーに入れたらいいかといったことで迷わなくてもいいわけです。正直、HPでは、記事を書くこともさることながら、更新の作業そのものにかなり労力を奪われているからなあ。HPの方は、雑誌にレポートを掲載したとか、そういう大きな動きの紹介に限定して、随時更新情報はブログに限定したら、相当楽になるだろう。まあ、しばらくは両方並行してやってみるけど、ひょっとしたらまた、このあたりの体制を見直すことになるかもしれません。
むろん、新しい媒体を使った情報発信の試みを、しばらく個人で試してみたうえで、ある程度の勘所や手応えがつかめたら、それを自分の勤務先の会員サービスにフィードバックしていきたいと思います。そちらの方は、ユーザー管理の問題などがあるので、さらに難しそうですが。
まず最初にお知らせ。このホームページのモバイル版を立ち上げました。スマートフォンや携帯電話からご利用ください。アドレスは下記のとおり。ただし、スマホからトップページ(http://www.hattorimichitaka.com)にアクセスすると、自動的にモバイル版に飛ぶように設定してありますが。
自分のHPのモバイル版を作成してみたいというのは、旧来の携帯電話の時代から漠然と思ってはいたのだけれど、スマホ時代になっていよいよ避けて通れないなという気がしてきた。しかも、決定的だったのは、これまでスマホから私のHPにアクセスしようとすると、エラーになってしまっていたこと。フラッシュのアニメが悪いのか、フレーム割が悪いのか、はたまたジオシティーズというサービスそのものが悪いのかはよく分からないが、いずれにせよスマホで私のHPにアクセスすると、いったんは表示されかけるものの、すぐに「URLが存在しません」みたいな表示に切り換わってしまっていた。このスマホ全盛の世に、そういう状態を放置することはとても気持ちが悪いので、とりあえず策を講じることにした次第。
しかし、実際にモバイル版をご覧いただくと、「何だよ、文字大きくしただけじゃん」と言われそうである。そのとおり、これは新着記事をシンプルに並べて、文字を大きくしただけのページである(当然のことながら、PCで閲覧すると、文字がどデカく表示される)。でも、私の場合HPはすべて手作りだから、これだって思案を重ね、試行錯誤を経て、ようやく実用的に閲覧できるページに仕立てたのである。スマホからアクセスしたら自動的にモバイル版に飛ぶ設定なんて、訳が分からなくて、ほとんど涙目でこぎ着けたんだからさ。アホだからJAVAのスクリプトとか書けないんだよ。私の今のリテラシーでは、これ以上無理!
まあ、もうちょっと時間的余裕があったら、勉強をして、ちゃんと見栄えのするスマホ・サイトを構築してみたいが。その点、ホームページ・ビルダーだと、スマホ・サイトのデザイン雛形が用意されていたり、PC版のHPを更新するとそれが自動的にスマホ版にも反映されるような機能があるらしいんだよね。いいなあ、簡単ソフトは。私も今さらながらDreamweaverからホームページ・ビルダーに乗り換えようかなあ。せっかくDreamweaverにも多少慣れてきたところなんだけど。
ただし、私のHPは写真や図表も多いことだし、あくまでもPCのHPがメイン。モバイル版では、図版は省略するし、諸々至らないところもあると思うけれど、あくまでも簡易版なので、ご容赦ください。なお、もしも私のHPを
http://www.geocities.jp/hmichitaka
というアドレスでブックマークなさっている方がいたら、この機会にぜひ
http://www.hattorimichitaka.com
に変更していただければ幸甚です。せっかくの独自ドメインですので。
それにつけても、私のIT環境は、この半年くらいでかなり変わった。その直接のきっかけは、昨年10月にiPod Touchを購入したこと。その経緯については、以前こちらやこちらで述べたとおり。そこに書いたとおり、iPod Touchは単なる音楽プレーヤーというよりも、通話のできないスマホのようなもので、WiFiでネットに接続できるので、ウェブやメールが使えるのである。 私はその後、このiPod Touchで出先でもWiFiに繋がるように公衆無線LANサービスに加入したり、アプリに目覚めたりと、iPod Touchが垣間見せてくれるスマホ・ワールドに徐々に引き込まれていった。それが高じて、「スマホでロシア・NISのニュースをチェックする」なんてレポートを発表したりもした。
そして、昨年暮れには、フェイスブックを始めてみた。そもそも私は、一方的な情報発信をしたいタイプであり、SNSで他人と繋がりたいなんてことはあまり思わない人間である。だから、自分のHPにも、ブログにも、コメント欄は設けていなかった。私にとってウェブでの情報発信はあくまでも、媒体を紙から電子に置き換える(あるいは後者が前者を補完する)だけのもので、双方向的なやり取りは拒絶していた。私の書いた文章を引用・批評していただいたりすることはウェルカムだけど、それは各自やってください、というスタンスだった。
しかし、フェイスブックに関しては、世界情勢を読み解く鍵にまで浮上しており、どんなものなのかという興味はあった。そうしたなか、12月にウクライナ出張に出向いた際に、機中で読もうと思って『日経トレンディ―』を買ったら、「3分で使えるフェイスブック術」というオマケ本が付いてきて、それを読んだらフェイスブックへの関心が膨らんでしまった。これは、もしかしたら自分の勤務先の情報発信ツールとして使えるかもしれないので、まず個人で試してみようと思い、始めることにした。実名制が基本のフェイスブックなら、生産的なやり取りも可能かなという期待もあったし。もっとも、本音を言えば、ロシア関係のアプリ漁りが一段落してしまい、他にもiPod Touchで遊ぶ何か面白いものはないかという気持ちもあったかもしれない。
フェイスブックを始めてみたものの、前掲の「3分で使えるフェイスブック術」には、「見ず知らずの人からの友達リクエストは断るべき」と書いてあったので、それに倣っている。そもそもがシャイな性格なので、フェイスブック上で知り合いを見付けても、自分からは友達リクエストを出さないというスタンス。なので、今のところ「友達」は十数人しかいない。だから、フェイスブックの持つ情報伝播力のようなものは、まだ実感できない。ただ、不思議なもので、SNSを疑問視していた私でも、友達リクエストが来たり、コメントや「いいね」をもらえると、妙に嬉しかったりするものである。恥ずかしながら、新しい自分を発見しつつあるというか。そんなわけで、私が勧めるのもなんですが、皆さんもフェイスブック、どうですか?
で、私の場合、やると決めたら、とことんやるタイプなので、私のこのHPの各記事にも、フェイスブックの「シェア」ボタンを付けることにした。しかし、日々、記事を書くだけでも大変なのに、フェイスブックに対応したり、並行してモバイルサイトも更新しなければならず、私の場合それを全部手作業でやってるから、やたら手間が増えたなあ。なお、フェイスブックに加えて、ツイッターのボタンを付ける実験もしてみたんだけど、そちらの方は技術的にあまり上手く行かず、依然としてツイッターには抵抗感もあるので、ツイッターはとりあえずやめにした。
目下のところ私が思案しているのは、近日中にスマホを買うべきかどうかということ。iPod Touchでスマホの美味しいところはだいたい体験できているつもりだけれど、やはり真正スマホ・ユーザーになりたいとう願望はある。携帯はドコモに加入しているので、アンドロイド端末を買うつもりだ。ネットや雑誌で、最新機種を比較検討する日々。でも、日系メーカーの端末を買いたいのに、どう考えても日本勢は現状ではサムスンのギャラクシーに見劣りし、購入に二の足を踏んでしまう。買えないうちに好奇心や知識ばかりが肥大化し、スマホ耳年増になりそう。
(2012年2月12日)
人間だれしも、「○○をすべてやる」といったこだわりや、目標というものがあるだろう。四国八十八ヶ所巡拝のように、イベントとして確立されているものもある。あと、ありがちなものとしては、日本のすべての都道府県を訪問するという目標を掲げている人などは多いのではないか。米国のすべての州を制覇なんてのもよく聞き、行った記念に各州のスプーンを集めるというコレクションもあるそうだ(ただし、実際に行かなくても、まとめて買うこともできるようだが)。うちの団体のモスクワ事務所の前所長さんは車好きで、以前「モスクワのすべての通りを走る」という目標を掲げ、実際に達成されたようである。欧米の多くの国と同様、ロシアでもすべての通りに名前がついているので、「完全制覇」という野望も沸くわけだ。
さて、以前も別のコーナーで書いたとおり、こんな私にも目標というものはいくつかある。その一つは、
ベラルーシの人口5万人以上の都市をすべて訪問する
というものである。元々は、ベラルーシに駐在していた頃に、人口10万人以上の都市はすべて訪問してみようということで始めた挑戦だったが、それは簡単にクリアしてしまった。そこで、行きがかり上、目標を「5万人以上の都市」に下方というか上方修正して、こつこつと行脚を続けてきたというわけだ。
そして、昨年11月のベラルーシ出張で、ゴメリ州ジロビン市を訪問し、これでベラルーシの五万都市24箇所を完全制覇した。24都市の具体的なリストとその人口数は、前掲の記事にまとめたので、ご参照を。っていうか、「百万都市」というのはよく聞くけど、「五万都市」なんて単語、そもそも存在するのかねえ。我ながら、物好きというか、変人というか……。
ところで、「訪問」ということを語る場合に、その定義というのをはっきりさせておかなければなるまい。私の知り合いのあるロシア人は、やはりロシア地方の豊富な訪問歴を誇っているが、その人は「宿泊すること」を訪問の定義としているという。恐縮ながら、私はもうちょっと緩い定義で許していただきたい。私のベラルーシ地方都市巡りは、日帰りで訪れたところも少なくない。たとえ短時間でも、その街を歩き、写真の数枚でも撮ったら、「訪問した」と言っていいのではないか。だいたい、ベラルーシの五万都市レベルになると、まともなホテルがなかったりするので、「宿泊」の義務化はご勘弁いただきたい。
ベラルーシの五万都市24箇所を制覇したなかで、自分でも一番怪しかったと思うのは、ミンスク州ソリゴルスク市。ソリゴルスクは、カリ塩採掘とカリ肥料生産のためだけにソ連時代に築かれた企業城下町で、見所も何もなく、ここを訪問すると考えるだけで憂鬱だった(今だったら「工場萌え」という趣味も加わったので、企業城下町であろうと訪問するのにやぶさかでないが)。ところが、ブレスト州ピンスク市を訪問し、そこから長距離バスでミンスクに戻ろうとしていた時のこと、バスが問題のソリゴルスクで途中停車し、しかも運転手によれば「ここで40分休憩」というではないか。私は思わず、「うわあ、超ラッキー! これでソリゴルスクは訪問したことにしちゃえ」と思い、大急ぎで街の中心を散策して、訪問のアリバイを作ったのだった。ちょうどクリスマスイブの日だったので、自分へのクリスマスプレゼントと思うことにした。まあ、写真も撮ったし、地元の新聞も買ったし、これで勘弁してください。
それから、上掲の記事で書いたように、ベラルーシの中小都市は人口減に悩まされており、グロドノ州スロニム市などは、私が訪問した時点では人口5万人を超えていたのに、その後5万人を割り込んでしまった。ただ、せっかくの踏破地点が1つ減ってしまうのはあまりにも悲しいので、スロニムも含めて「ベラルーシの五万都市24箇所完全制覇」と自称させていただく。
コレクションなんかでもそうだけど、最初は順調に数が増えても、パーフェクトに近付けば近付くほど、ハードルが上がってくる。私のベラルーシ五万都市制覇も、最後にゴメリ州のスヴェトロゴルスクとジロビンという厄介なものが残ってしまった。いずれも、ミンスクから遠いうえに交通の便も悪く、そのくせ観光的な見所などは何もないので、わざわざ訪れる気にはとてもなれない街である。
それでも、スヴェトロゴルスクについては2011年2月に、同地に所在する化繊メーカー「ヒムヴォロクノ」を視察する機会が生まれ、それで訪問を達成した。残るは1つ、ジロビン。で、11月のベラルーシ出張で、モギリョフからゴメリまで車で移動することになり、その中間くらいの位置にジロビンがあるので、この絶好の機会を利用してジロビンに立ち寄ることにした。ついにベラルーシ五万都市24箇所巡拝が完結する日が来たのである。
しかし、さすがに最後まで残ったところだけあって、ジロビンは何の魅力もない街だったなあ。知り合いを訪ねていくとか、特別な事情がない限り、この街を好き好んで訪れる人など、まずいないだろう。私が行った日が、天気が悪く寒い日だったこともあり、まさに「最後の試練」という感じだった。
ともあれ、以下では、ベラルーシ五万都市完全制覇を記念して、各都市の訪問の記録を、証拠写真とともに掲載しておくことにする。訪問を遂げた順に見ていく。なお、2003年以前の写真は、フィルムカメラで撮ってプリントしたものをスキャンしたので、画質が落ちる点、ご容赦を(関連する苦労話はこちら)。
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ミンスク1994年7月17~18日に初訪問 私は1998年4月からベラルーシに駐在することになるわけだが、その4年前に一度だけ、調査出張でベラルーシのミンスクを訪問したことがあった。これはその時の写真で、独立から2年ちょっとしか経っておらず、バザール経済的な雰囲気が漂っている。 |
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1998年4月30日~2011年3月30日在住 そして、1998年4月から3年間は、大使館員としてミンスクに駐在することになった。これはベラルーシに赴任して最初に撮った写真で、自宅から中庭を写したもの。 日本に帰国してから、出張でミンスクを訪れたのは、2001年11月、2003年6月、2005年2月、2006年3月、2011年2月、2011年11月の、計6回。 |
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リダ1999年2月3日訪問 初めてのベラルーシ地方都市訪問は、グロドノ州リダ市だった。自分から進んで行ったのではなく、日本政府の支援事業で、リダの農業機械工場に自動車整備研修センターを開設することになり、その開所式に出かけた。なので、街は全然見ていない。赴任当初は、むしろ外国に多く出かけ、9ヵ月後にしてようやく地方に出向いたことになる。 |
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2003年6月25日再訪問 で、日本に帰任した後のことになるけど、『不思議の国ベラルーシ』上梓に向けラストスパートに入っていた2003年6月、リダを再訪した。この時は、文化・歴史関係が中心で、博物館、城塞跡、教会などを回った。 |
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モギリョフ2000年5月5~7日訪問 で、ベラルーシ駐在が残り1年になったところで、本を書くことを決意し、その1年でベラルーシの地方都市を訪問しまくることになる。その第一弾が、東部の街、モギリョフだった。実に思い出深い調査旅行である。ただ、痛恨にも、この時私はカメラを持っていくのを忘れてしまい、現地で買った安カメラで写した写真なので、画質は最悪。 |
2011年11月26~28日再訪問 そのモギリョフには、昨年の11月に再訪問を果たした。写真の右側の高い建物は、昔の市庁舎(ラトゥシャ)を再建したもので、11年半前に来た時にはまだなかった。 |
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グロドノ2000年6月30日~7月2日訪問 グロドノは、対ポーランド国境からほど近い西部の街。この時は、ベラルーシ企業家同盟のカリャーギン会長が連れて行ってくれ、彼の計らいで企業訪問などもでき有益だった。ただ、今回昔の写真を整理したところ、不思議なことにこの時の写真がまったく残っておらず、一体どうしたのだろうか? この写真はカリャーギン氏がくれたもの。 |
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2001年3月18~20日再訪問 で、グロドノには、ベラルーシ駐在の最末期に、もう一度行ってみた。写真は、当国で最も美しいとも言われるカトリックのイエズス会聖堂・修道院。 |
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ブレスト2000年9月1~3日訪問 ベラルーシ西部のもう一つの街、ブレストへの訪問に際しては、サンタ・インペクス社のモシェンスキー社長に全面的に世話になった。社長は地元の顔役なので、色々と顔パスが利いた。写真は全然関係ない、大通りの風景。 |
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2000年12月18~22日再訪問 2000年12月にブレスト州への大遠征を決行し、その一環としてブレスト市も再訪。これが私にとって初めてのベラルーシ地方都市リピートということになる。写真は有名なブレスト要塞のモニュメント。 |
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ポロツク2000年9月23~24日訪問 2000年の夏休みに、ポーランド~リトアニア~ラトビアと周り、最後にベラルーシのポロツクに立ち寄るという無茶な旅行をしたことがある。その時の模様については、こちらのエッセイを参照。ヴィテプスク州ポロツク市は、街自体は殺風景であるものの、歴史・文化遺産はベラルーシ随一。 |
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ノヴォポロツク2000年9月24日訪問 ノヴォポロツクは、製油所の企業城下町だが、その発展により、今では本家のポロツクよりも人口が多い。一本道に沿って延々と団地が続くというだけの街並みなので、ポロツクで拾ったタクシーで出かけ、簡単に視察するだけで済ました。タクシーの運転手に「街を見せてくれてありがとう」と言ったら、「街ではない。一本道だ」と言われた。 |
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ヴィテプスク2000年10月6~9日訪問 ベラルーシ東部の、シャガールの出身地としても知られるヴィテプスクには、2000年の秋に訪問。文化的な雰囲気のある街で、個人的にはベラルーシの地方都市では最も気に入ったが、なぜか一度しか行ったことがない。写真は、ヴィテプスクの象徴、市中心部の市庁舎(ラトゥシャ)の風景。 |
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ゴメリ2000年11月9~12日訪問 人口数ではベラルーシ第2の都市、南東部のゴメリを訪問し、これでベラルーシに6つある州都は一通り制覇した。写真はゴメリ宮殿。この時は、社会活動家のカシヤネンコ氏が尽力してくれた。ベラルーシの地方での有意義な調査は、現地の協力者の支援なしには成り立たない。 |
2011年11月28~29日再訪問 そして、2011年11月に、久々にゴメリに出向く機会があった。モギリョフとゴメリを比べると、同じ東ベラルーシの地方都市でも、モギリョフがかなり田舎っぽいのに対し、ゴメリは整然として結構栄えているように見えた。 |
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レチツァ2000年11月12日訪問 上記のゴメリ現地調査の際に、アレンジを引き受けてくれたカシヤネンコ氏が、車を出して、ゴメリ州の小都市レチツァまで連れて行ってくれた。写真は、そのカシヤネンコ氏(左)が、教会の廃墟につき、現地の人と言葉を交わしている様子。 |
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バラノヴィチ2000年12月17~18日訪問 2000年12月のブレスト州大遠征は、出だしでつまずいた。バラノヴィチ行きの汽車の切符を買ってあったのに、朝寝坊して、汽車に乗り遅れたのだ。昼頃に現地でアポがあったので、慌ててミンスクでタクシーを拾い、150km離れたバラノヴィチまでタクシーで移動するハメになった。まあ、当時のベラルーシでは、それほど高くはなかったけど。 |
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コブリン2000年12月21日訪問 バラノヴィチからブレストに移動し、そのブレストから日帰りでコブリンを訪問。『不思議の国ベラルーシの』123ページに、「とある学校におけるベラルーシ文学の授業の様子」という写真が出ているけど、これは実はコブリンの学校で撮影したものだった(政権による迫害が及んだりすると困るので、本では念のために伏せておいた)。 |
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ピンスク2000年12月22~25日訪問 私のとても好きな街、西ポレシエ地方を代表するブレスト州ピンスク市。街だけでなく、ここを拠点にモトリ村やドストエヴォ村を視察できたことも忘れられない。ぜひもう一度行ってみたい街である。 |
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ソリゴルスク2000年12月24日訪問 上述のとおり、棚ボタ式に訪問実績を挙げたミンスク州ソリゴルスク市。それにしても、塩の街という名前だけあって、このバスターミナルを含め、街全体が白っぽいイメージだった。 |
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モズィリ2001年1月13~14日訪問 この街は、チェルノブイリ支援の関係で、日本とのつながりがある。その縁で、私の友人がここで日本語教師をやっていたので、そのつてを頼って訪問した。街は、まあとくに何もないが、たぶん夏に訪れたら良い印象を受けるだろう。 |
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ボリソフ2001年2月3日訪問 ミンスクから、休日を利用して、鉄道で日帰り視察。その時の模様については、以前こちらで語ったことがあるので、ご参照あれ。 |
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スルツク2001年2月17日訪問 ベラルーシ駐在も残り2ヵ月を切り、この2月は本当に気の狂ったようにあちこち行きまくった。ここに示しているベラルーシ国内だけでなく、ベラルーシと関係のある周辺国にも行って調査をしていたし。 ミンスク州スルツク市には、休日を利用して、バスで日帰り視察を決行した。 |
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オルシャ2001年3月2~3日訪問 ベラルーシ東部の中都市、ヴィテプスク州オルシャは、鉄道の結節点で、私もミンスクから鉄道で出向いた。オルシャのあと、ロシアのスモレンスクに赴き(スモレンスクはロシア領ながらベラルーシ史の観点から重要な街)、そこでも調査を行った。写真は、ソ連軍の「カチューシャ砲」が初めてここで使用されたという記念碑。 |
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ボブルイスク2001年3月5日訪問 モギリョフ州ボブルイスク市は、州都以外の都市としてはベラルーシで人口最多。同市を訪問したことで、私は当国の人口10万人以上の都市はすべて制覇した。当地はかつてベラルーシにおけるユダヤ人の中心地で、ミンスクから日帰りで出かけたこの調査でも、ユダヤ人団体を訪問した。写真は、ユダヤ人とは関係ないが、有名な建築遺産。 |
2011年2月14日再訪問 ボブルイスクにあるタイヤ・メーカー「ベルシナ」を、2011年2月に訪れた。この時は企業訪問だけで、街の様子は見なかった。 |
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スロニム2001年3月15~18日訪問 ベラルーシ駐在時代に、私が最後に新規訪問した地方都市が、グロドノ州スロニムだった。スロニム自体、雰囲気があって気に入ったが、ここを拠点に正教会の聖地ジロヴィチ、コッソヴォ、コシチューシコ所縁の地、そして拙著の表紙にも使ったルジャヌィ宮殿跡を訪問できたことは、夢のような体験だった。 |
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モロジェーチノ2001年11月24日訪問 2001年春にベラルーシ駐在を終えて日本に帰り、最初のベラルーシ出張で、ミンスクからの車による日帰りで、ミンスク州モロジェーチノを訪問した。正直、これといって何もない街。五万都市であと残っているのは微妙なところばかりであり、お察しのとおり、この頃になると地方都市訪問が自己目的と化してきている。 |
ジョジノ2006年2月26日訪問 ミンスク州の、「ベラルーシ自動車工場(BelAZ)」の企業城下町ジョジノ。ここを訪問した時のことは、以前エッセイに書いたので、よかったらどうぞ。 |
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スヴェトロゴルスク2011年2月14日訪問 ブランクが空いたけど、ベラルーシ地方行脚を再開。あと2つということで、いよいよカウントダウン体勢。折良く、スヴェトロゴルスクの化繊メーカー「ヒムヴォロクノ」が日本の設備を導入して近代化を実施しているところで、ベラルーシ側の招待で工場視察と相成った。ただ、企業訪問だけで、街自体をほとんど見られなかったのが残念。 |
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ジロビン2011年11月28日訪問 そして、今回、モギリョフからゴメリへの車での移動途中に、ゴメリ州ジロビンに立ち寄り、これにて「ベラルーシの五万都市24箇所完全制覇」と相成った。 意外に、特別な達成感とかはなかったけど(笑)。 |
(2012年1月17日)